松葉がに漁業
~沖合底びき網漁業~
- 漁期
-
11月~3月
- 漁獲物
-
ズワイガニ(アカガレイ、ハタハタ、モサエビなど)
- 漁場
-
山陰沖(隠岐島周辺を中心)の水深200~500メートル
- 漁具の構造
-
対象魚種にあわせて、ハタ網(キス網)、カニ網及びエビ網の目合いを変えた3種類の漁具を常備している。ただし、賀露ではエビ網を除く2種類である。漁具は、ひき綱、袖網及び袋網からなる。ひき綱は複雑な組み合わせで、これが漁獲に大きく影響するいわれている。このひき綱は漁船の馬力数によってその組み合わせが決定され、馬力数が大きくなれば、ひき綱を太くするなどして重量を増大する。かっては数ヶ所にチェーンなどを取り付けていたが、現在ではワイヤー入りロープ(コンパウンドロープ)を使用しチェーンは使用していない。
- 漁法
-
65~95トンの鋼製漁船で8~11人が従事する。漁場近くになると、浮標にひき綱の一端を結着し、ひき綱及び漁具がスムーズに投入できるよう準備するとともに、風向、潮流を確認する。漁場に到着すると、風向と同方向(海況によるが潮流より風方向を重視する)に曳網するよう、まず浮標を投入し、図のように転針しながら全速で航走し投網する。 最後に浮標を引き揚げ、ひき綱の一端を回収し、曳網を開始する。なお、回転方向は地区により異なり、網代及び田後では左回り、賀露は右回りである。曳網は、風に追われるように風向と同一方向で、最初の5分間くらいは約0.4ノットとごく微速で、10分間ほど約0.8ノット、40分間ほどは1.3~1.8ノット、最後の5分間くらいは全速にし、60分程度で曳網は完了する。揚網は、以前は曳網時とは逆に船首を漁具方向に向けて、ひき綱を船首ローラーから巻揚機(サイドローラー)で網具まで引き揚げ、網具は船体側部の舷門からデレッキにより順次吊り上げていた(サイド型)。現在では、ひき綱を船尾より巻揚機(ドラム)に巻きつける(スターン型)。綱の巻き取り時間は15~18分で、網は網巻取機に揚網され、船上に引き揚げられた袋網部のまぐい綱をゆるめて漁獲物を取り出し、魚種大きさに選別して箱詰めする。1回あたりの操業時間は約1時間半で、揚網完了後、移動して次の操業位置を決め、前期同様の操業を昼夜を問わず繰り返す。1航海4泊5日程度で帰港する。
- 歴史
-
ずわいがにの生息水深がふかいことと、カニ魚場にはエビやカレイなども生息し、それらも重要な漁獲対象である為、底びき網で漁獲されています。 この漁業は長い歴史があり、鳥取県漁業史の一編となります。藩政時代から手繰網として営まれ、鳥取県では明治36年(1903)最初の漁業取締規則が 制定された際、許可漁業の一つとして揚げられています。この当時はいわゆる帆船手繰と呼ばれ無動力船による操業であったところから、明治末期には 全国的に動力船による操業が試みられたが、いずれも成功を収めるに至りませんでした。本県においても明治44年5月、県で4.7トン10馬力の動力漁船 「日本海丸」を建造し、東部漁村の漁業組合連合会が、また、大正2年には大岩村漁業組合が試験操業を実施しています。
その後、島根県で大正2年(1913)に動力化に成功し、さらに大正6年に動力巻揚機が開発されて、名実ともに機船底びき網漁業が誕生し、 能率漁法として急速に全国へ広まりました。このため、帆船時代から他種漁業と競合していたところへ、動力化によって問題が一層深刻化しました。 そこで、国においては、各府県の取締規則に委ねていくことはできないとして、大正10年に機船底曳網漁業取締規則を制定し、すべての底びき網を 統一的に規制して、あらためて知事の許可漁業としました。しかし、底びき網漁船は急増の一途を辿ったため、昭和8年(1933)許可の権限が 大臣へ移管されて許可隻数の抑制が図られ、次いで昭和12年に機船底曳網整理規則及び整理転換奨励規則が制定されて、 積極的な減船整理が行われることとなりました。 ところが太平洋戦争が苛烈となって整理が中断され、一方では、漁船が軍の徴用沈没等によって隻数が激減し、昭和19年行政事務の簡素化のため、 再び知事の許可制となったそうです。
戦後、食糧増産の国策に対応して許可隻数が激増し、資源枯渇、他種漁業との競合等の問題が発生したため、昭和22年(1947)再び農林大臣の許可制となり、 昭和27年漁業法が改正されて、15トン未満の動力船による底びき網を小型機船底びき網漁業、15トン以上を中型機船底びき網漁業として分離し、 それぞれ別の規制によって措置されることとなり、さらに昭和37年に漁業法が改正され、沖合底びき網漁業と呼ばれることとなりました。 このような課程の中で底びき網漁業は次第に荒廃して日増しに経営難となり、禁止区域違反等が頻発し、一方では操業区域拡大運動が展開されました。 兵庫、鳥取、島根及び山口のいわゆる山陰四県協定問題が出たのがこの頃です。この四県協定は、山陰沖漁場における機船底びき網漁業の入会操業調整で、 昭和23年8月に端を発し、昭和25年10月、2年以上の長期に亘る協議の結果、円満な調整案の決定をみるに至り、同年12月25日従前( (昭和24年8月以降の措置)の詳細な改訂要綱が定められ、以降当分の間の措置として取り扱われることとなりました。 これが現在に至っても引き続き実施されているいわゆる暫定禁止区域設定の始まりである。
この漁業は、ズワイガニ(松葉がに)、ハタハタ、アカガレイなどを漁獲する本県を代表する漁業であり、東部での流通・観光産業への貢献度も高いです。 しかしながら、本県において現在(平成21年度漁期)、沖合底びき網漁業を営む漁船は、田後11,網代11、賀露6の合計28統で、 平成元年の52統(うち2そうびき1統)と比較しても激減しており、経営の厳しさの一端が窺えるます。 一方、漁船装備とりわけ電子機器の飛躍的な発達や漁船性能の向上にもかかわらず、この漁業が長い間続いているのは、この漁業の持つ必ずしも 漁獲効率の良くない本質的な漁法の特性や、漁業者自らの資源管理への取り組みによるものと考えます。
- 漁期
- 11月~3月
- 漁獲物
- ズワイガニ(アカガレイ、ハタハタ、モサエビなど)
- 漁場
- 山陰沖(隠岐島周辺を中心)の水深200~500メートル
- 漁具の構造
- 対象魚種にあわせて、ハタ網(キス網)、カニ網及びエビ網の目合いを変えた3種類の漁具を常備している。ただし、賀露ではエビ網を除く2種類である。漁具は、ひき綱、袖網及び袋網からなる。ひき綱は複雑な組み合わせで、これが漁獲に大きく影響するいわれている。このひき綱は漁船の馬力数によってその組み合わせが決定され、馬力数が大きくなれば、ひき綱を太くするなどして重量を増大する。かっては数ヶ所にチェーンなどを取り付けていたが、現在ではワイヤー入りロープ(コンパウンドロープ)を使用しチェーンは使用していない。
- 漁法
- 65~95トンの鋼製漁船で8~11人が従事する。漁場近くになると、浮標にひき綱の一端を結着し、ひき綱及び漁具がスムーズに投入できるよう準備するとともに、風向、潮流を確認する。漁場に到着すると、風向と同方向(海況によるが潮流より風方向を重視する)に曳網するよう、まず浮標を投入し、図のように転針しながら全速で航走し投網する。 最後に浮標を引き揚げ、ひき綱の一端を回収し、曳網を開始する。なお、回転方向は地区により異なり、網代及び田後では左回り、賀露は右回りである。曳網は、風に追われるように風向と同一方向で、最初の5分間くらいは約0.4ノットとごく微速で、10分間ほど約0.8ノット、40分間ほどは1.3~1.8ノット、最後の5分間くらいは全速にし、60分程度で曳網は完了する。揚網は、以前は曳網時とは逆に船首を漁具方向に向けて、ひき綱を船首ローラーから巻揚機(サイドローラー)で網具まで引き揚げ、網具は船体側部の舷門からデレッキにより順次吊り上げていた(サイド型)。現在では、ひき綱を船尾より巻揚機(ドラム)に巻きつける(スターン型)。綱の巻き取り時間は15~18分で、網は網巻取機に揚網され、船上に引き揚げられた袋網部のまぐい綱をゆるめて漁獲物を取り出し、魚種大きさに選別して箱詰めする。1回あたりの操業時間は約1時間半で、揚網完了後、移動して次の操業位置を決め、前期同様の操業を昼夜を問わず繰り返す。1航海4泊5日程度で帰港する。
- 歴史
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ずわいがにの生息水深がふかいことと、カニ魚場にはエビやカレイなども生息し、それらも重要な漁獲対象である為、底びき網で漁獲されています。 この漁業は長い歴史があり、鳥取県漁業史の一編となります。藩政時代から手繰網として営まれ、鳥取県では明治36年(1903)最初の漁業取締規則が 制定された際、許可漁業の一つとして揚げられています。この当時はいわゆる帆船手繰と呼ばれ無動力船による操業であったところから、明治末期には 全国的に動力船による操業が試みられたが、いずれも成功を収めるに至りませんでした。本県においても明治44年5月、県で4.7トン10馬力の動力漁船 「日本海丸」を建造し、東部漁村の漁業組合連合会が、また、大正2年には大岩村漁業組合が試験操業を実施しています。
その後、島根県で大正2年(1913)に動力化に成功し、さらに大正6年に動力巻揚機が開発されて、名実ともに機船底びき網漁業が誕生し、 能率漁法として急速に全国へ広まりました。このため、帆船時代から他種漁業と競合していたところへ、動力化によって問題が一層深刻化しました。 そこで、国においては、各府県の取締規則に委ねていくことはできないとして、大正10年に機船底曳網漁業取締規則を制定し、すべての底びき網を 統一的に規制して、あらためて知事の許可漁業としました。しかし、底びき網漁船は急増の一途を辿ったため、昭和8年(1933)許可の権限が 大臣へ移管されて許可隻数の抑制が図られ、次いで昭和12年に機船底曳網整理規則及び整理転換奨励規則が制定されて、 積極的な減船整理が行われることとなりました。 ところが太平洋戦争が苛烈となって整理が中断され、一方では、漁船が軍の徴用沈没等によって隻数が激減し、昭和19年行政事務の簡素化のため、 再び知事の許可制となったそうです。
戦後、食糧増産の国策に対応して許可隻数が激増し、資源枯渇、他種漁業との競合等の問題が発生したため、昭和22年(1947)再び農林大臣の許可制となり、 昭和27年漁業法が改正されて、15トン未満の動力船による底びき網を小型機船底びき網漁業、15トン以上を中型機船底びき網漁業として分離し、 それぞれ別の規制によって措置されることとなり、さらに昭和37年に漁業法が改正され、沖合底びき網漁業と呼ばれることとなりました。 このような課程の中で底びき網漁業は次第に荒廃して日増しに経営難となり、禁止区域違反等が頻発し、一方では操業区域拡大運動が展開されました。 兵庫、鳥取、島根及び山口のいわゆる山陰四県協定問題が出たのがこの頃です。この四県協定は、山陰沖漁場における機船底びき網漁業の入会操業調整で、 昭和23年8月に端を発し、昭和25年10月、2年以上の長期に亘る協議の結果、円満な調整案の決定をみるに至り、同年12月25日従前( (昭和24年8月以降の措置)の詳細な改訂要綱が定められ、以降当分の間の措置として取り扱われることとなりました。 これが現在に至っても引き続き実施されているいわゆる暫定禁止区域設定の始まりである。
この漁業は、ズワイガニ(松葉がに)、ハタハタ、アカガレイなどを漁獲する本県を代表する漁業であり、東部での流通・観光産業への貢献度も高いです。 しかしながら、本県において現在(平成21年度漁期)、沖合底びき網漁業を営む漁船は、田後11,網代11、賀露6の合計28統で、 平成元年の52統(うち2そうびき1統)と比較しても激減しており、経営の厳しさの一端が窺えるます。 一方、漁船装備とりわけ電子機器の飛躍的な発達や漁船性能の向上にもかかわらず、この漁業が長い間続いているのは、この漁業の持つ必ずしも 漁獲効率の良くない本質的な漁法の特性や、漁業者自らの資源管理への取り組みによるものと考えます。
※とりねっと 鳥取県水産試験場
http://www.pref.tottori.lg.jp/73623.htm より転載